【E pur si muove】それでも、それは動く①

FB友達がリンクしていた『【骨盤矯正?え?】仙腸関節アプローチをサイエンスと神経から読み解く』という動画。

仙腸関節には、こうした批判が山のようにあります。

仙腸関節矯正とみると脊髄反射のごとく批判する一部の医療関係者があまりにも多い。

なんでそんなに嫌われるのか、ちょっと分かりません(あ、やっぱり少しは分かります 笑)。

そういう私も元々は徒手療法否定派で、仙腸関節にも懐疑的な時期がありました。

なのでスルーという選択肢もあるのですが、これを看過してはオタクの名に反しますから(えっ?)、この批判を私なりの言葉で読み解いてみます。

よくある批判ですが、こういうの、目いっぱい好意的に考えれば、あらためて自分の思考を整理するための良い機会。

正しいと思うからこそ、批判から目を背けてはいけない。

 

この動画だけでなく、その他の動画DNM JAPNのコラムもいくつか目を通した、というか見まくりましたが(笑)、サイエンスと言いながらずいぶん断定的な物言いをする人だなぁ、そして決めつけや飛躍も多いなぁ、というのが第一印象。

論文の著者が「可能性がある」という言い回しにとどめていることを、都合の良いところは決定事項のように論理を誘導します。

つまり「~ではない可能性がある」「~である可能性がある」という研究者の意見が、彼の口を通すと「~ではない」「~である」という印象に変わってしまう。

まぁ意図的にそうしているんでしょうけど。

 

私も皮膚という組織には(というより皮膚は一つの独立した臓器として)興味がありますし、お世辞でもなんでもなく、DNMの理論には学ぶべきところが多く敬意は払いますが、関節の問題は関節の問題として扱うべきで、すべて皮神経に落とし込もうとするのはやっぱり無理があるんじゃないかなぁ。

 

内容的に気になる点はいくつかありました。

まずは動画にある上殿皮神経、中殿皮神経へのアプローチ。

私から見るとそれ、仙腸関節へも確実に作用しています。

DNM的にはそういう目的ではないのかもしれませんが、その操作による仙腸関節への影響は無視できません。

視点を変えれば見え方が変わるわけで、理論はどうであれ、それらを完全に除外できるのかな?と感じずにはいられません。

もっとも、仮にそれが仙腸関節に作用したとしても、持続はしないでしょうけど…。

 

はやく動画へのコメントを、と思われるかもしれませんが、少々お待ちください(笑)。

順序がありますので、慌てずに。

たぶん今回はそこまでいきません(笑)。

タイトルにある通り、その①です。

 

で、次にいろんな意味で気になったのが「等尺性収縮後弛緩アプローチは相反抑制によるものではない」というコラム。

DNMでは等尺性収縮後筋弛緩(PIR)を利用したPNFや筋エネルギーテクニック(MET)に似た手法を用いるようです(カウンターストレイン(S/CS)的なのもありますね)。

確かPIRを否定されていたと思うのですが(サイエンスで)、その解釈を変えたところでほとんど同じことをしているのなら、その操作後に起こる筋弛緩は神経のストレッチの結果だという理屈に置き換えたとしても、それこそサイエンス的に見たら結局ブーメランでいろいろ否定されるってことになるような気がしなくもない。

 

そこで引用されている「Muscle activation during proprioceptive neuromuscular facilitation PNF stretching techniques」「Neurophysiological reflex mechanisms’ lack of contribution to the success of PNF stretches. 」を私も読んでみました。

確かに概要を読んでみると面白くて、ようは「PNF後に起こる可動域の増加は相反抑制(筋緊張の低下)によるものではない」という結論です。

むしろPNFは筋収縮を促進させてしまうのだそうです。

筋収縮は促進されるが可動域は増加する」ということは、「筋緊張は必ずしも可動域を制限しない」ということですよね。

概要では痛みに関する言及はありませんが(全文は読んでいないけど)、通常臨床でこの手のアプローチは可動域の増加とともに痛みを軽減させますから、この結果からみると「筋緊張疼痛ではない」という構図になってしまいます。

もっとも僧帽筋ガチガチでも「肩こりなんてない」って人いくらでもいますから、特に驚きはありません。

(ただ、この論文中の「stretch-relax」がHold-relaxのことなのか、ストレッチと脱力ということなのか、私には分からなかった。)

 

この論文の示唆するところは「筋緊張≠可動域の低下≠疼痛」ということですから、「可動域低下の原因は筋緊張でも痛みでもない」ということになる。

ということは「痛みをとっても筋緊張をとっても可動域は改善されない」という仮説も成り立つ。

可動域の増加をもたらすものが「筋緊張の低下」でも「疼痛の軽減」でもないとすると、この論文の中で残るのは唯一「筋収縮の促進」だけ。

しかも「筋電図での活動が高いほど可動域は増加している」わけで、この結果だけを見れば「筋活動が増すほど可動域は増加する」ってなってしまう。

さらに「筋活動は促進(収縮)」しているのだから、この結果は「組織のストレッチ」によるものでもない。

 

とりあえずこの結果だけを素直に受け取って、それをそのまま裏返せば「筋弛緩は可動域の低下と疼痛を誘発する要因となる」とも言えるので、「筋を弛緩させない方がいい」という結論に導いたとしても大きな矛盾は生じないことになる。

この論文から推測されるのは、「痛い」→「筋緊張が起こる」→「可動域が低下する」ということでも、「筋緊張」→「痛み」→「可動域の低下」でもない。

そうすると「痛みを取る」→「筋緊張が取れる」→「可動域が増す」または「筋緊張を取る」→「痛みが取れる」→「可動域が改善」ということにもならない。

だいたい患部になど触れなくても可動域が増加する現象など珍しくもなんともないんだから、これも特に驚くほどのことではないけどね。

 

で、仮に「筋緊張が侵害受容に伴う逃避反射」であるとするなら、「何らかの原因により筋収縮が低下」→「可動域低下」→「可動域低下に伴い侵害受容器への刺激量増」→「痛み」→「筋緊張促進」という可能性も浮き上がり、「痛みは筋緊張を促すための自己修復作用」=「痛みは無闇に取らない方が良い」という仮説も成り立つ。

と、なんだか訳が分からなくなるんです、バカなので。

ヒトの身体って要素が膨大すぎて、論文を読めば読むほど、そしてその関連要素を考えれば考えるほど、答えから遠ざかる気がする。

シンプルがいいなぁ(笑)。

 

ちなみに私は「関節の不安定性が関節の可動性を低下させる」という考え方なので、筋緊張が低下しスタビリティが低下すると可動域が減少する、という可能性はアリだと思います。

 

岩吉氏はこのコラムのまとめとして、「等尺性収縮により末梢神経周囲の環境が改善されることで侵害受容が低減し疼痛が減少し可動域も拡大する」と述べています。

しかし私がこの論文の概要を読んだ限り、このPNFの研究が示している事実は「可動域の拡大」と「筋活動の促進」の二点だけで、痛みに関する言及は見当たりません。

彼の論述、こういう飛躍が目立つんですよね、たびたび。

 

岩吉氏は「構造的変化と痛みは無関係である」と頻繁に述べています。

これは岩吉氏に限ったことではなく、サイエンスベースを自称する医療関係者の最近の傾向でもあります。

だから「仙腸関節の歪みなど関係ない」と強い調子で批判する。

私はそこに、一抹の危うさを感じるわけです。

 

基本的に痛みとは「身体からの警告」だと私は考えています。

なんの意味もなく身体が痛みを発するとは思えません。

そこには何か理由があるはずです。

構造的な変化」もその理由の一つに十二分になりうると私は考えます。

 

画像上で構造的変化が認められても痛みを感じない人が多い、またはそれらが認められなくても痛みを有する人も多い、という調査結果を理由に、「ヘルニアも狭窄症も関節の変形も(ついでに姿勢とかも)痛みとは無関係」と彼らは主張します。

それは事実で、構造的な変化が痛みと関係するという確かな根拠にはなりません。

しかし同時にそれは、構造的な変化は痛みを誘発する、ということを「完全には否定していない」と私は思っています。

そこに「侵害刺激」を伝達する神経線維が分布している以上、それをその部位の異常を感知するセンサーと見做すことが不自然だとは思えないからです。

 

ヘルニアにしろ狭窄にしろ変形にしろ、普通に考えれば、身体にとって無視できない事態だと思わずにはいられません。

そのサインを無視すれば危険な状況に陥る可能性もあるということに、反対する人は少ないでしょう。

その議論には、まだ結論は出ていないと私は思っています。

そういうサイエンスを真に受けて「そんなの関係ねぇ」と無茶をするセラピストが出てくる可能性を思うと、それはあまりにも無責任な発言だと私には感じられるのです。

痛みが構造からの警告である可能性がゼロでない限り、それを「皮神経の絞扼」だとか「脳のバグ」だと一蹴してしまう危険性の方がはるかに高いと私には思えますが、どうでしょう。

構造に問題が発生しているのに痛みを感じない方が、よほど大問題だと思う。

故に、身体が痛みを訴える時、常に構造の問題は考慮されるべきだと、私一人になっても言い続けたい。

 

DNMでは、痛みの原因を「神経の絞扼」または「神経の神経の絞扼」に基づく「血行障害」と考えているようです(詳しくはDNMのサイトでご確認ください)。

それはそれで、合理的な説明だと思います。

この理論は、疼痛とは、身体からの感覚情報などのインプットと、脳内の過去の記憶や予測や感情が混じり合って生じる、脳からのアウトプットだということを明確にしました」というニューロマトリックス理論も、大筋では理解できます。

もしそうであるとすれば、痛みは免疫反応に似ているのかもしれません。

一度罹患したウイルスなどに対して、先回りして排除しようとする働きという意味で。

しかし痛みが「侵害刺激」だという前提に立てば、上で述べたように「取らない方が良い痛み」というものが存在する可能性を、私は排除できません。

 

ちょっと脱線しますが、我が家の床は無垢のフローリングです。

安物なのかもしれませんが、大型犬を室内で飼っていることもあり(走り回ると床をガリガリ傷つける)、床がささくれ立っています。

私はスリッパを履かないので、そのささくれ立った棘が足の裏によく刺さります。

その痛みはなかなか強烈で、小さな棘でもそれを抜くまで続きます。

そして抜いたつもりでも歩くとまだ痛みを感じるときは、見えないくらいの小さな小さな棘が中に残っていて、それを抜くまで痛みは消えません。

実はこれ、私にとってかなり大きなストレスになっています。

 

これぞ、まさに侵害刺激。

その痛みは足の裏に棘が刺さっているというサインで、痛覚がきちんと仕事をしているわけです(笑)。

しかしちょっと刺さりかけてうまく抜けた、という場合、一瞬チクッと感じますが、その痛みが継続することはありません。

ニューロマトリックス理論的にみると私の脳は、さして学習能力が高くないということでしょうか?

それならそれで、幸いなことですけど。

 

構造上なにか問題が生じたとき、それ以上ダメージを拡大させないためには「痛みというサイン」が必要です。

それがない方が、私には恐ろしい。

そう仮定すると(というか、そうでしょう普通)、やはり痛みには「何か原因がある」と考えなければ侵害受容器そのものの存在意義がなくなります。

 

ここでまた話を「上殿皮神経」「中殿皮神経」に戻します。

岩吉氏はこれを「絞扼で起こる」としています。

絞扼って物理的な刺激なので、それこそ構造上の問題ではないかと思うのですが、それはひとまず置いておきましょう。

 

上殿皮神経の走行はなかなかミステリアスで、「胸腰筋膜や線維骨性トンネルを貫通」して臀部に分布しているようです。

線維骨性トンネルというのがどういうトンネルなのかとても興味がありますが、詳しい資料を見つけることができませんでした。

中殿皮神経に関しては長後(背側)仙腸靭帯の下を通過する神経で、20世紀前半はこの部位での神経絞扼が腰痛や坐骨神経痛の原因とみなされていたそうです。

その後ヘルニアが発見され、医学界は一気にそちらへと舵を切りました。

それ以前は、仙腸関節が腰痛の主犯との考え方が主流だったみたい。

 

ちょっと話がそれました(^^;。

PNFの研究の結果から推察すると、「痛みは取らない方が良いという仮説も成り立つ」と上で述べました。

痛みは侵害刺激であり、構造上の問題を知らせるサインという前提に立てば、その異常を知らせるために侵害受容器が存在するということになります。

 

ここであらためて上記の神経の分布に注目してみます。

上殿皮神経、特に絞扼される割合の高い内側枝は、私の理論ですが、利き足側の問題に関わる痛みの領域に走行が一致しています。

この辺は詳しく書くと超長くなりますから、誤解を覚悟で大雑把に説明すると、利き足側は寛骨が上へと持ち上げられる側です。

神経は筋膜を貫通しているということですから、その空間に余裕がなければ、寛骨の上方への変位が神経を圧迫する可能性は考えられます。

 

中殿皮神経は長後仙腸靭帯の下を走行します。

引用されている文献にもあるように、この部位の圧痛は仙腸関節痛として扱われることも多いポイントで、ここも大幅に詳細を省きますが、私の理論では軸足側の問題が痛みとして表れやすいポイントでもあります。

さらに仙腸関節は軸足側の方が靭帯にかかる負荷は高く、過剰に伸張された場合、この部分が緊張し絞扼される可能性は高まるはずだと推測されます。

 

つまりどちらの神経も、構造上の問題で絞扼される可能性がある。

と、あらびっくり、私の理論(全部仮説)でもこの絞扼は論理的に説明できてしまいます(しかも私の中ではまったく矛盾がない)。

そして何気にその仮説をバックアップしてくれたりもします(笑)。

 

私は、仙腸関節には利き手に応じた動きの左右差があり、その左右差があるレベルを超えると様々な不調が現れる、と推測しています。

つまり症状とは、その範囲を越えさせないための身体のサインだと考えています。

 

そういう視点でこの神経の走行を観察すると、そしてなんのためにそんなところを走行しているのか、と考えると、必要以上に左右差が拡大するのを監視するために「そう出来ている」という論理の展開も可能。

むしろ「そこを走行していることに意味がある」と私なら考えます。

防犯を目的に人感センサーを設置するとしたら、侵入されたら危ないところに付けますよね?

防犯カメラだって、出来るだけ犯人が映りやすいところに取り付けるでしょ?

同じ意味で、「損傷を未然に防ぎ、トラブルを察知するためにあえて絞扼されやすいところを走行している」としても、「防衛としての痛覚」であれば自然な配置だと私には思えます。

 

まったく意味もなく、たまたま偶然そんな狭苦しいところを走行している、とはちょっと思えないなぁ。

アホな人間でもそう思うのだから、神が与えたもうたこの身体、そんなにロークオリティなわけがない。

神さまなめんなよ!

信じてないけど。

でも毎年きちんと初詣は行くけど。

 

もちろん私の仮説に照らせば、という話で、サイエンスでもエビデンスでもありません。

しかし、もし、仮に、万が一、その仮説が正しくて、その痛みが「仙腸関節の過負荷を知らせるサイン」だとしたら、やっぱり「痛みは取らない方が良い」ということになると思う。

痛みだけを取っても、問題解決にはならないから。

それが神経または神経の神経のトラブルではなく、仙腸関節のトラブルであるなら。

 

私はここでDNMの批判をしているつもりはありません。

むしろ、DNMで救われる人がいるのなら、それは素晴らしいことだと思っています。

また同じくPNFやMETやC/CSの批判でもありません。

ただ、それと同じように、仙腸関節の矯正に救われる人もいるはずだと思っているだけです。

そしていまも、その正しい方法を模索しているだけのことです。

超真剣に。

 

今日はここまで。

やっぱり動画へのコメントまではいきませんでした(笑)。

続きは次回に。

Coming Soon!

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