うちは自宅兼仕事場なので、普段は「携帯なんて別にいらねーな」「特にスマホなんてなくてもいーけどな」と思っていて、実際スマホはリビングに置きっぱなしで、数日着信に気付かないなんてこともあったりします。
だからスマホは基本、三男のおもちゃ。
そんな無用の長物のスマホですが、先日北陸でのセミナーの際、上着のポケットから落ちて壊れてしまったのです。
土曜日の夕方から日曜日に帰宅するまでの間、何年かぶりに携帯電話なしの生活。
もちろんセミナーにスマホなど不要ですから、講義に支障はありません。
普段の仕事にもスマホなんて必要ない。
それどころか、生活そのものにスマホなんていらない。
着信もLINEも、一週間まるでなし、なんてことも珍しくありません(笑)。
だからいつも「いらない」って思っているのに、いざそれを失うと、それなりに不安になったりする矛盾。
いつの間にか、あるという状況に慣らされてしまっていたんですね。
でも昔はさぁ、スマホも携帯もなくてなんの不自由もなかったんだよね(それどころか、そんなものなかったあの頃がむしろ懐かしいよね)。
現に先日も、使えなくても特別不便はありませんでした。
あるのはただ、いつもあるはずの連絡手段が「ない」、という漠然とした「不安」だけ。
しかし、仮に連絡がつかなくて困る、という危機的状況に陥るとしたら、それはおそらく不測の事態。
当然先日も、そういう事態には遭遇しませんでした。
私の場合仕事では不要、用もなく電話などしない、だからスマホは基本何かあった時のための保険のようなもの。
そしてその何かなど、そうそう起こるものではない。
そういう不測の事態など起こらない方がいいわけだから、その意味では、私の場合スマホは使わなければ使わないほど「幸せ」ということになる。
だいたいスマホを持っていることとそうした事態に遭遇することの間にはなんの関連性もないうえに、こうやって、突如使えなくなるということだってある。
つまり「持っているから安心」なわけではない。
もしかすると、そんな根拠のない安心感は、油断に繋がっているのかもしれない。
今回のように普段あるはずの連絡手段がないという緊張感は、いつも以上に行動を慎重にさせ、運転などに関する安全性は逆に高まっていたようにも感じる。
こんなことを考え始めると、スマホを持っている意味なんて本当にあるのだろうか?という疑念は膨れるばかりです。
しかも、使わなくても月々かなり大きな額を払い続けなければならない。
私の環境では、起こることなどほとんどない何かのために、毎月数万円(年間数十万円)という出費を強いられている、ということです(笑)。
なんという無駄。
実にバカバカしい。
本当に無意味な「依存」であるような気がしますね。
使いこなせばそれなりに便利な反面、その便利な道具に振り回され、スマホなり情報なりに支配されてしまっている、なんてことかもしれないね。
何が怖いかって、いつの間にかスマホなんぞに依存してしまって、それが壊れたことでオロオロしてしまう程度の軟弱な精神構造が怖いわけです。
スマホがないことは不便でもないし、そもそも単純に便利がいいってもんでもないし、それで世の中が良くなったってわけでもない。
進歩は後戻りできないっていうのは分かっているけど、スマホなんてなかった時代が不便でつまらない世の中だったというわけでもない。
だいたいねぇ、パソコンやスマホなんぞに頼るなんてのはなんか違うんだよ、そんなもの無くなったって何にも変わりゃしねぇんだよ、と、パソコンでこれを書きながらどこかで薄っぺらな抵抗もあるわけです(笑)。
そしてそんなこと言いながら、速攻で新しいiPhone7 を手に入れてまんざらでもなかったりもするわけです(笑)。
この矛盾(笑)。
生きていくということは、こうした矛盾からは逃れられないということなのだ(笑)。
文明の利器という矛が強靭になればなるほど、それに支配されない強い盾を持っていなければバランスを崩す。
何事も同じだと思う。
気を付けないと、いつの間にか偏っていたりするからね。
しかしiPhone7 はデカすぎるな。
ますます邪魔だな(笑)。
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