違和感の正体

以前のブログで「エビデンスになじめない」と書いた。どうもエビデンスには素直に受け入れられない違和感があるのです。結局そんなことをだらだらと考え続けていて、昨日その違和感の正体がなんとなく判ったような気がするので、忘れないように書いておこう。

エビデンスとは統計処理で「有意差がある」ということが前提で、ようするに確率論だから、当然その確率から漏れる人がいるでしょ。

例えば腰痛に抜群の効果がある薬が開発されたとするでしょ。およそ9割の腰痛が解消されるくらいの。でも1割には効かない。9割の改善率を誇るすごい矯正手技が開発されたとするよね。でもやっぱり1割には効果がない。

この場合、絶対的に「問題」となるのは、効果のない1割の方だよね。

もし9割の人が改善するという治療法が出来たらそれはとても価値のあるものだけど、治りたいと願う患者がいて、その人がその1割の側だったとしたら、そんな統計何の意味もないよね。

整形外科に8年も勤めていたんだから、その治療に満足している患者さんが大勢いるのを知っている。整骨院の治療に満足している患者さんが大勢いることも知っている。既存の仙腸関節矯正で改善する多くの患者さんがいることも知っている。

おそらく統計処理をすれば、どれも優位な改善率や満足度は示されるんじゃないかな。しらんけど。

ここで分かれるのは、多くの人が満足しているんだから、ぼく満足、と思えるかどうかだな。

それで満足できていたら、整形外科もやめなかったし、カイロもやっていなかったし、仙腸関節の研究もしていなかったと思うんだ。

だから、ぼくにとってだいじなのは統計じゃない。

医療って、統計的な少数派を切り捨てることじゃない。むしろ拾い上げていくことなんじゃないかと思う(でも、それは保険医療では難しい)。

結局ぼくは少数派なんだな(ちょっと納得)。

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