以前ハイデガーの存在論に関する本を読んだとき、「ああ、世の中はすべて自分の一部なんだ」と直観した。
それからいろんな犯罪を見聞きするたびに、「こういう部分、自分の中にもあるんだろう」と思うようにもなった。
何れにしても、すべては自分と同じ「人間」が行っていること。
そしてそうした出来事に対する嫌悪感は、自分自身の内側の深いところにある狂気に対する自己嫌悪であるとさえ思う。
狂気の対極に正義のようなものを置いて、正気な自分がその真ん中でふらふらとしている。
狂気と正義、善と悪は常に表裏一体。
どちらかに偏った時、それは狂気の人にも正義を振りかざす人にもなる。
状況次第でそれはどちらにでも傾く。
ひとはその時々の状況判断で「正しい」選択をしながら生きていく。
そうやって便宜的な選択をしないと前へは進めないけど、視点を変えればその正しさはいつも危うい。
それを正しいとした判断はある一部をクローズアップして自己正当化しているだけで、他の大部分は間違っている可能性のあることをどこかで自覚しておいたほうが良い。
間違っているとわかっていても、どこかでそれをごまかして進んでしまうこともある。
ごまかしきれずに一歩が踏み出せないこともある。
どちらにしても、その選択が本当に「正しい」かどうかなんてわからない。
自分が絶対に正しい、と思っている時は、むしろ危険だと認識しておいたほうが良い。
真ん中からどちらか一方に振れてしまっている時だと考えたほうが良い。
近頃の残忍なニュースと世の中の動きをみて、そんなことを思う。
便宜的な選択の仕方一つで、ぼくは後藤さんにも湯川さんにもジハーディ(聖戦士)にもなっていたかもしれないのだと思う。
ああ、人間は本当にバカで悲しい。
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