仙腸関節塾in東京 4月17日開講!
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治療とは哲学的なものです。
普遍性を希求してしまう性質のものだからです。
常に限界を感じつつ、キリがないと分かっていながら、それを求め続けるものです。
しかしそれぞれの治療法の背景にあるものは哲学ではなく、思想だと私は考えます。
哲学と思想の違いを学術的に説明することなどできませんが、ここでは「哲学は完結しないもの」、「思想は完結するもの」という風にでも了解いただけたらと思います。
とにかく哲学と思想は、私の中では別のものです。
そして時折見かける「治療哲学」という言葉には、違和感を覚えます。
内容的にそれらは思想であり、言葉を換えれば、独自の世界観や身体観、健康観、理念、信条などを表明したものであって、多くは完結しています。
哲学は「疑」から始まるものであって、常にその「疑」を思考の対象としますから、完結しないという点で科学と通ずるところがあります。
思想は「信」の対象であり「信」に帰着(させようと)するものですから、完結が前提であり、信仰にも通ずるという点で宗教的と見ることもできます。
身体は「複雑系」ですから、因果に関しては確率的にしか計れません。
常に「疑」が残ります。
治療の現場では、「悩」と言うべきかもしれません。
求めるものに終わりはありませんし、おそらく完璧などありませんから、「悩」からは逃れられません。
しかしいつもいつも「疑」や「悩」に囚われていては、こころが安定しません。
こころの安定装置(信仰の対象)として、思想が必要なのです。
思想は完結が前提ですから、線形的な方法で因果を対応させ、言語化します。
ようは辻褄合わせの論理です。
思想は不安定な土台の上で自己を安定させるための手摺りのようなものです。
そういう意味では、すがり付くものです。
信仰と同じです。
信じることは安定につながり、疑うこととは対極に位置します。
しかし信仰は、思考を型に嵌めることにもなります。
それでは不自由ですし、ともすれば思考停止に陥りかねません。
現場では、無効な時ほど雄弁であったりもします。
困難から目を逸らすのに、時に思想が有効だからです。
しかしそれにすがり付くことは、その場に「居着く」ことです。
それならいっそのこと、不安定なままでいいと私は思います。
私はゆらぎながらも、少しずつ、もがきつつ、前へ進んでいたいのです。
つまり、そんな「思想」に私は縛られているのです(笑)。
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